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スカイハイ!ミル・マスカラス、76歳のダイビングボディアタック

2月19日、東京の両国国技館にて開催された“ジャイアント馬場没20年追善興行”で、仮面貴族ミル・マスカラスが76歳の御年で空中殺法を披露したとのニュースが飛び込んできました。

 

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マスカラスはハナオがプロレスLOVEだった頃の花形レスラーでした。

 

今なお現役としてファンを魅せ続ける彼に敬意を表しつつ、懐古に浸ってみたいと思います。

 

 

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悪魔仮面~初来日まで

ミル・マスカラスを初めて知ったのはプロレス専門雑誌週刊ゴングの海外通信記事でした。

 

ロサンゼルスでグレート小鹿とシングルマッチをおこない、その試合で小鹿にスリーパーホールドで締め落とされたマスカラスのショットが載っていました(結果は引き分け)。

 

マスカラスは当時ロスを主戦場にしていまして、初期の異名“悪魔仮面”はこの頃に付けられたと記憶しています。

 

当時の情報は、試合ごとにマスクを変え、ドロップキックを連発するなど空中戦が得意なメキシコ出身の覆面レスラーくらいなもので、マスクマン=悪役のイメージが根強かった頃ですから、概ねプロレスマニアからは、結局シメはラフファイトに走るのだろうと思われていました。

 

初来日は1971年、日本プロレスに参戦し、ジャイアント馬場やアントニオ猪木相手のマッチメイクをこなしましたが、それほど目立った存在ではありませんでした。

 

 

千の顔を持つ男~覆面世界一決定戦

マスカラスは1973年から全日本プロレスにマットを移し、ザ・デストロイヤーをライバルとして覆面レスラー最強の座を争いはじめます。

 

この頃から異名は“千の顔を持つ男”へと変わり、NTVの倉持アナウンサーがこれを連呼していました。

 

デストロイヤーとの戦いはもやもやした決着ばかりで、実力的にも強いのか弱いのかはっきりせず、ファンの持つイメージはちょっと変わった戦い方をする覆面レスラーの認識でした。

 

御大ジャイアント馬場や売り出したばかりのジャンボ鶴田との絡みも少なく、興行サイドもマスカラスをスターにする気はあまり無かったように思われました。

 

 

「スカイハイ」効果で人気爆発

NTVの「 全日本プロレス中継 」では元々、次のシリーズの来日外人レスラーをコモドアーズの「 マシンガン 」に載せながら紹介するコーナーがありました。

 

マシンガン コモドアーズ

 

1976年の年末、翌年の新春シリーズに参加するミル・マスカラスをジグソーの「 スカイ・ハイ 」を用いてPV風に紹介しました。

 

個人のレスラーを単独で紹介する試みにも驚きましたが、この紹介Vがあまりにも格好良くて痺れました。

 

ポンチョとソンブレロを纏ったミル・マスカラスがトップロープを華麗に飛び越えてリングイン。

 

ザ・デストロイヤーの首を両足で挟んだと思ったら、そのまま逆さになって首を支点に回転して投げ飛ばすローリングヘッドシザース。

 

技名のテロップ付きでフライング・クロス・アタック(フライング・クロス・チョップ)2連発。

 

そして最後はダイビング・ボディ・アタック!!

 

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マスカラス人気は爆発しました。

 

来日したマスカラス自身が一番驚いていたと思いますが、ファンたちの騎馬に乗せられて入場したレスラーはそれまで見たことがありませんでした。

 

一躍大人気レスラーになったマスカラスは、初戦で高千穂明久(のちのザ・グレート・カブキ)を見事にコブラツイストで仕留めたのでした。

 

なお、このPV手法の大当たりに味を占めた全日本プロレスとNTVは年末の「 オープンタッグ選手権 」の紹介フィルムにも採用、事前告知は大正解でとんでもない人気シリーズとなりました。

 

 

マスカラス人気の過熱~鶴田との伝説の名勝負

マスカラスフィーバーは盛り上がる一方で、雑誌ゴングでは毎回のように特集記事を載せ、マスカラスのみの臨時増刊号もバカ売れ。

 

マスカラスだって好かれて気分が悪かろうはずがなく、ノリで自宅に日本庭園を造ったりしていました。

 

「 スカイ・ハイ 」も相乗効果で1977年のオリコン年間チャートで洋楽1位の大ヒット曲となりました。

 

スカイ・ハイ ジグソー

 

ハナオは、マスカラスのPV?を観た後すぐにレコード屋に走り、ジャケットがハンググライダーバージョンのシングルレコードを買いましたが、いざ聴いてみると「 あれ、なんか違う 」。

 

TVで使われていたのは実は同名の映画のサントラアルバム版の方でアレンジが異なっていたのです……あ~がっかり。

 

のちにマスカラスジャケットのシングル盤が発売されたので、そちらも買ってみましたがやっぱり違うバージョンの方で二度がっかりしました。

 

おかげで「 スカイ・ハイ 」は今でも歌詞を見ずとも歌えます。

 

1977年8月25日、雨の田園コロシアムでおこなわれたジャンボ鶴田とのUNヘビー級選手権試合は、この年のベストマッチに選ばれ珠玉の名勝負と今でも言われ続けていますが……。

 

全日本プロレス参戦の頃からマスカラスはマスクを二枚重ねで着用していました。

 

リングコールの後、オーバーマスクを脱いで客席に投げるのがお定まりで、試合にはほぼこのデザインのマスクで臨んでいました。

 

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ところが、田園コロシアムでの鶴田との試合用マスクはまったく違うデザインだったのです。

 

ハナオはそれを観た瞬間に“ああ、この試合マスカラスは勝てないんだな”と結末が見えてしまいました。

 

案の定結果は1-1からトぺを失敗したマスカラスのリングアウト負け。

 

正直試合内容の方も、それほど見応えがあるとは思えませんでした。

 

なお、この試合でマスカラスが鶴田から奪った1本は空中殺法ではなく、両足を使っての羽交い絞めのような関節技(ゴング誌命名=サーフボード・バック・ブリーカー)でした。

 

 

兄弟タッグ、NWA挑戦~10年目のフェードアウト

鶴田との死闘の翌年からは実弟のドスカラスも来日し、兄弟タッグで話題を呼びました。

 

1980年には日本で当時のNWA世界チャンピオンハリー・レイスのタイトルにも挑戦しました。

 

ところが、マスカラス人気が海外にも派生していき主戦場が分散したこともあって、徐々に来日頻度も減りブームも下火になっていきました。

 

全日本プロレスの扱いも段々ぞんざいになり、あれだけグダグダ引っ張っていたザ・デストロイヤーとの腐れ縁もあっさりと1本試合でのピンフォール決着(しかも同じシリーズ内のノンTVマッチで1勝1敗)には唖然としました。

 

まだ海外では十分トップレスラーたるマスカラスは日本から身を引いたのでした。

 

 

76歳のミル・マスカラス、圧巻の空中殺法

19日の試合でマスカラスはドスカラスとの兄弟チームで、カズ・ハヤシ&NOSAWA論外と戦い、最後は相手ふたりまとめてダイビング・ボディ・アタックで抑え込んで勝利しました。

 

さすがに衰えはあるでしょうが、それにしても76歳での空中殺法は凄いのひとこと!!

 

だって、こちら↓はマスカラスと同じ年生まれの有名人の皆様ですが……

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小泉純一郎さん、福留功男さん、寺田農さん、北の富士勝昭さん、上岡龍太郎さん、中尾彬さん

コーナーポストの上から飛んでいただくには恐れ多いでしょww

 

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今回も最後までお読みいただきありがとうございました。